當麻政徳のプロフィール

簡単な略歴

現在、フリーのWEBデザイナーとして活動中です。
WEBサイト制作や紙媒体(チラシ・パンフレットetc)の制作を中心としています。

1989年大阪生まれ、大阪育ち。

小・中・高と勉強嫌いでゲーム好きなやつ。

高校3年生から「このままじゃヤバイ」と思って勉強する。

大学では初めての部活動を満喫。

就職活動をする中で「やりたいことを仕事にする」という強い気持ちを持つ。

卒業後は興味のあった中学校の先生をするも、実力不足で2学期まで持たず退職。

人生で一番の病期をアルバイトで繋ぎながら過ごす。

好きなものづくりを仕事にしようと大工の見習いになる。

色々あって材木屋で働くも、目標を見失い転職。

WEBデザイナーとして正社員になり、経験を積む。

理想のワークスタイルや、家庭を追い求めて独立。

「情熱を持ち続ける」を自己理念に持ち、活動しています。

僕の人生観

“やりたいことを仕事したい”
“楽しく働きたい”
“人のためになる仕事をしたい”
“自由な暮らしを手に入れたい”
“お金でやりたいことを妥協したくない”
“家族との時間を大切にしたい”

人からは「夢みたいなことを言っている」と言われるが、自分を信じて夢を追い続けたい。
何かを諦める人生よりも、夢に挑戦し続ける人生の方が絶対楽しいと思うから。

幼少期

幼稚園のお遊戯会で、「どら猫ロック」という曲を皆んなで踊るんですが、この曲がすごく気に入らなかったんです。
それで本番中、周りの子が踊っているのに嫌がって、一人だけ先生に追いかけ回されていました。
親は相当恥ずかしかったそうですが笑ってました。

自分が嫌だと思ったことは意地でもやらない。
なんていう頑固な考えの持ち主です。

小学生時代

勉強が大嫌い。運動神経が悪い。ゲームが大好き。
当時、ドラえもんを見ながら「僕ってのび太とそっくりだ」と真剣に自分とのび太を重ね合わせていました。

学校では唯一図工の授業が好きでした。
想像を膨らませて作ったりするのが楽しかったです。
その傍ら、宿題を全くやらずに居残りさせられる毎日。

家ではTVゲームやカードゲーム、プラモデル作り。外遊びは鬼ごっこや秘密基地を作ったり。
嫌なことは嫌。好きなことはとことんやる少年でした。

将来の夢はゲームを作る人。おもちゃ屋さん。
「ゲームが好きならなれる」とか、「色んなゲームを好きなだけ遊べる。」という子供の発想です。

中学生時代

小6の頃に父親が家出をして以来、母親が家庭裁判所に通うようになりました。
幼少期の頃から両親のケンカは絶えず、僕は心を痛めてきました。
そうして、2〜3年間父親のいない時を過ごします。(現在は離婚せずにいます。)

クラブをどうするか考えていた時、友達がいる卓球部に入部しました。
しかし、卓球は上達せず、ゲームをする方が楽しかったので段々幽霊部員となり、1年間で辞めてしまいました。

中学生になっても相変わらず勉強が大嫌いで、ゲームが大好きです。
そう楽観的にいれたのも中学2年生まで。進路を考え出した頃から現実を見ることになります。

それでも嫌なこと(勉強など)を遠ざけ、親に反発し、楽な方へと逃げてばかりいます。反抗期でした。
周りと自分を比べて悲観的になり、前髪を伸ばして暗く自分の殻に閉じこもるようになりました。自分に対して諦めてしまったのです。
結局学力は向上せず、当時最低ランクの公立高校へ進学します。

高校生1・2年生

合格発表の日に、結果が合格だったのに絶望したのをよく覚えています。
最低ランクの高校、不良っぽい人もいっぱいいるし、「これからどんな高校生活になるんだろう」と不安な気持ちでいっぱいでした。

勉強嫌い、ゲーム大好きは変わりなく、部活に入らずゲームにのめり込む毎日でした。
平日はどれだけ早く帰ってゲームできるかに必死になり、休日はゲーム友達を招いて朝から晩までゲーム尽くしの生活です。

そんな僕に転機が訪れます。
高校2年生の夏にオンラインゲーム(モンスターハンター2dos)にハマり、気付けば2000時間もプレイしていました。
しかし、やり込み過ぎて飽きてしまったんです。欲しい武器防具を揃え、珍しいアイテムをゲットし、全てのモンスターを倒しました。このゲームでやりたいことがなくなったんです。

そうして誰かに作られた世界の中で、ゲームという名の作業をするこ自体に飽きました。
ゲーム内のキャラクターは強くなったけど、自分は余り変わっていませんでした。

高校2年生の2学期を目前に、進路を考え出す時期。
趣味の領域を超えて、時間を浪費することに危機感を感じ、自分自身の将来に向き合おうと決意しました。

この時、勉強や将来のことを考えずにゲームばかりしていた事を、青春の貴重な時間を浪費した事をすごく後悔しました。
自分が好き好んでやってきたゲームが一時期大嫌いになり、今までに購入したゲームを全部売ってしまう程です。

誰かに作られた行き止まりのある世界ではなく、
無限の可能性が広がる現実世界のことをもっと知りたいと思いました。

高校生3年生 人生の転機

三年生になった春、自分の中で今までになく強く、「今のままでいいのか。新しい事に挑戦して変わりたい。」と思い、進路の事や勉強も含め積極的に取り組もうと決意しました。

自分で考えて行動したのは初めてでした。

長く伸ばした前髪を切り、生徒会執行部に入りました。
色んな活動の中で、友達以外のクラスメイトや、普段関わらない先生達と話したり協力するようになり、初めて高校が楽しいと感じました。

進路を考えた時に初めて「やりたいことがわからない。」と気付きました。
そこでやりたいこと見つける事、部活で努力する事を目的に、奨学金を借りて大学へ進学する事を目指します。(この時点で絞れていたら良かったのですが、興味のあるパソコン関係の学科を目指しました。)

ですが、僕は勉強が大の苦手なので、なるべく受験勉強をせずに指定校推薦で進学する事を目指します。
そのために、2年の2学期から必死に勉強しました。この時の決心は本当に強かったです。初めて高校で集団いじめに逢ったのですが、屈する事なく1日も休まず皆勤でした。

成績は信じられない程に伸びました。下記は僕の評定平均です。(max:5)
1年:2.92
2年:4.46
3年:4.77

赤点を複数取っていた成績と打って変わって、4か5しかない成績表。
「自分でもやれば出来るんだ」と初めて感じた時でした。

親に見直してもらえたり、文化祭の舞台で友達とデゥエットを歌ったり、初めての彼女ができたり、ゲームを友達と楽しむ程度にやったりもしました。
自分を取り囲む環境がどんどん変わっていきました。

「俺なんか頑張ってもダメ。」と思い込んでいた僕は大きな気付きを得ます。

「どれだけ落ちこぼれても、希望を持って努力を続ければ、いつかきっとその努力は実を結ぶ。」

そうして無事、指定校推薦で志望校に進学します。

大学生時代

大学生になり、色んなことに興味が湧き、何でも出来るような勇気に満ち溢れていました。

ただ、大学の授業は思っていたものと違ってつまらなかったんです。
私はパソコンに興味があったものの、プログラミングを楽しめませんでした。(バックエンドのSE系)
頑張って入った大学を辞めることもできず、卒業を目標に単位を取得していきました。

人生で一番クラブ活動をがんばった。

そんな中、クラブ活動が本当に楽しかったです。
前から興味のあった吹奏楽部に所属し、サックスを担当しました。
譜面も読めない初心者からのスタートだったので苦労をしましたが、初めて夢中になって取り組めることが嬉しかったです。

大学生活はほぼ部活一筋でした。
夕方に授業が終わってから夜10時半頃まで練習したり、本番前は土日も練習したり、夏はコンクールや依頼演奏があるので夏休みも練習漬けでした。

当時は、上達するために必死で楽器しか見えていませんでした。
今思うと大学生のうちにもっと色んな経験を積んでおけば良かったなと感じています。

それでも後悔はしていません。

クラブで人生最高の瞬間を味わえた

部活をがんばった事で人生最高の瞬間に出会えたからです。
大学3回生の時、吹奏楽コンクールで初の金賞を受賞し、初の関西大会出場を果たしました。賞取った直後はみんなで抱き合ったり、泣き合ったり、むっちゃ騒ぎましたw
今でも鮮明に覚えています。

幹部になった年は、演奏会の企画ステージをまとめることも経験しました。
自分の存在がみんなの役に立っている、必要とされていると強く感じることが出来ました。

就活や将来のことを置き去りにしていた

就活はというと、大学4回生の秋になっても全く決まっていませんでした。
「やりたいことを仕事にしたい」という思いが強く、就活をする中で希望の会社を見つけられずにいました。

そんな中、大学1回生から履修し続けていた教職課程がありました。
高校3年の担任がすごく情熱的な先生で、「こんなに熱くなれる仕事をやってみたい。自分のように落ちぶれた生徒を救いたい。」という思いで教師を志していたんです。

しかし、「自分に教師が勤まるのか!?」という不安を捨て切れませんでした。
気持ちが固まらないまま教育実習まで行って、【中学校教諭一種免許状(数学)】を取得します。
教員採用試験を受験しましたが、勉強不足で1次不合格。卒業ギリギリまで悩んで常勤講師として働きながら正規教員を目指す道に進みます。

なぜなら
「やってみなければわからない。やりたいことにチャレンジしよう。」
と強く思ったからです。

教員(22歳)

晴れて中学校教員として働き新1年生の学年を担当するが、2学期を迎えることなく退職することになります。辞めるに当たっては、たくさんの人に迷惑を掛けました。今でも本当に申し訳なかったと思っています。

不安でいっぱいの日々だが、意外とやれる

4月〜6月まで、数学の授業はチームティーチングと言って、二人体制で授業を行います。一人が前で授業をし、もう一人はわからない生徒のサポートに回る。私は後者を担当していたので、40人に対して授業することはありませんでした。
この頃はキツく生徒に叱ることが出来ず、「ガミガミ怒らず言うことを聞かせられたらいいな」と甘く考えていました。カッと叱ることの出来る同い年の先生に感心する程です。
勉強を教えることも自信を持てずにいたのですが、中学1年生の内容だったのでそれなりに教えることが出来ました。

クラブの顧問にもなりました。選択肢はなく、ポストの空いていた卓球部しかありませんでした。
聞く話によると、モンスターペアレントの息子さんがいるらしく、”オンザデスク”と先生の間で話題になっていました。何を指すかと言うと、怒った親御さんが職員室の机の上に立って、顧問の教員を叱ったそうです。その光景が凄かったらしく、誰もが卓球部の顧問を避けていました。
私は他に選択肢もないので引き受けました。また、同じ卓球部の顧問には他に5~60代の先生2人がいて、「若いし体を動かすような実技指導はお願いします。」と頼まれました。
私は「しっかり教えなきゃ!」と意気込み、学校近くの卓球教室に通い始めます。
噂の卓球部を見ていますが、細々したトラブルはあっても言うこと聞いて特に問題はありませんでした。

崩れ始めた教員生活

6月から習熟度別学習が始まりました。数学の授業を基礎コースと応用コースの2つに分けます。人数も半数の20人ずつぐらいに。経験豊富でわかりやすく教えられる先輩教員が基礎を。私は応用コースを担当することになりました。
一人で授業を担当することに備えて練習も積んできて、遂にその時が来ました。
何度かはうまく行っていた授業が段々と崩れ始めました。

生徒が私語をしたり、手紙を回したり、授業妨害を始めたのです。
最初は見過ごしていることもありましたが、注意するとすんなり聞かず反発。
私は最初の頃に出来なかった大声を上げ、厳しく注意するようになりました。

しかし、厳しくするほど反発は強くなり、授業を中断して叱ることもあり、精神を消耗していきました。先輩教員からは「怒鳴って黙らせるのは邪道。面白い授業で惹きつける。」とアドバイスをもらい試して好転したこともありますが、なかなか毎回とはいきません。
叱り過ぎて、不公平感を持った生徒の親が学校に来たこともありました。
普通の授業をするのに精一杯なのに、塾に通って余裕のある子達が授業を妨害する中、わからない子にしっかり教えることが出来ないジレンマ。中学1年生の数学をしっかり教えないといけないという責任感から、ボロボロの授業に罪悪感が積もっていきます。

宿泊学習で、夜には生徒主催のお楽しみ会がありました。
しかし、見る側が雑談しまくって教師が静かにするよう怒鳴り回していて、僕もそれに乗っかるように叱ります。気付いたら、笑い声よりも怒号が響き渡っていました。
学校では、生徒指導に関する学年会議が毎週行われるほど新1年生は荒れていました。

同時期、卓球部の方でも指導がうまくいきませんでした。
「楽しい中にも1本筋を通して、大会で勝てる子を増やしたい。」という思いで指導してきましたが、遅刻・無断欠席は当たり前、練習メニューをやらない、練習せずに遊んでいたり、3年生が卓球台を占領して1年生が打てなかったり。
生徒にナメられ始めて、言うことを聞かなくなりました。それどころか、僕を顧問として見ていない。バカにする。僕は部活を見にいっても空気みたいな存在になり始めました。

自分自身、卓球教室に通っていてもなかなか上達しません。むしろ、授業準備に追われて通えないことが続きました。

乗り切った1学期。しかし、2学期を迎える不安に押し潰される。

夏休みを目前に、必死の思いで授業をやり遂げる。
最後の方はもう完全に病んでいました。食欲も落ち、毎日明日が来なければいいのにって思っていました。
胸が締め付けられる思いで毎日授業に向かいました。
子供達が夏休みに入って、少し落ち着きましたが、クラブ活動はほぼ毎日ありました。

他の先生が育休に入るので、2学期から3年生の授業も担当することになりました。
引き受けるしかない状況と、自分の指導力・知識力不足に大きな不安を抱えます。

授業練習やプリントなどの教材制作をしながら部活を見ていたのですが、生徒の反応は相変わらずです。全く相手にされません。他の顧問はと言うと、海外旅行に行っていたり、「実技指導は任せる」と言って職員室にこもっていたり、頼ってもどうにもなりません。
何度か厳しく言うも状況は良くならず、2学期を迎える不安と重なって心が折れてしまいました。

完全に無気力になり、体が動かなくて学校に「登校できません。」と連絡する日が続きます。何度か校長から励ましの言葉を頂いたのですが、復帰する気持ちになれず退職のお願いを直接伝えました。

退職後に知ったのですが、その地域の中でも荒れている方の学校で、私が辞めてからも何人か退職する教員がいたそうです。

人生最大の挫折を味わう

仕事を辞めてから1ヶ月ほど、無気力で何も手をつけられませんでした。

教員をやっていた頃を思い出すと、色々と反省点がありました。講師として働き始める前から、もっと指導力や知識を身につけていればとか、最初から厳しく当たっていればナメられることはなかったんじゃとか。

自分の仕事の出来なさに、どこへ行ってもダメなんじゃないかと悲観的になり、社会人不適合者だと本気で思いました。

「死にたい」とも思い、気持ちを確かめるべく自殺の名所に行ったりもしました。
でも、谷底を目の前にして全く飛び降りる気がしない。それどころか、岩場にいたフナムシが気持ち悪くて陸地に引き返しました。
「自分は本気で死にたいんじゃないんだ。」そう気付けたんです。

また、精神科にも行きました。
そこで先生に死にたい気持ちを話したら、すごく叱られて「君が自殺することは、妹さんの兄を殺すことになるんだよ。妹さんは兄が自殺した現実を背負いながら生きていくことになるんだよ。それでもいいのか?」と言われました。
そんなのいいわけない。自分だけの問題じゃないと気付かされました。

辞めて2ヶ月が経った頃から少しずつ立ち直り始めました。
ホテルのルームメイクのアルバイトを始めたり、何かのきっかけになればとボランティア活動に参加しながら仕事を探します。

大工の見習い(23歳)

ボランティアがきっかけで大工の求人に出会います。
求人の文章に心を動かされ、「ものづくりをやりたい!大工っておもしろそう!この人のもとで働きたい!」と思い、大工の見習いとして働かせてもらうことになります。

造作現場の雑用から始まり、マンションの改修工事、水道屋、電気屋、防水屋…と、いろんな職人さんのもとで働かせてもらいました。(大工からずれてきていますが。)
初めてのことばかりでとても楽しく生き生きと過ごしていました。

ただ、楽しくも色んな職人さんに叱られまくり、自分の不器用さを思い知ります。
本当に大工になんてなれるのか…と感じていました。

3ヶ月経った頃、経済的な面で雇い続けることが困難になったと告げられました。
そこで、材木屋を紹介してもらい材木の知識を付けながら大工の下積みすることになります。

この頃、決められたレールに沿って生きることよりも、自分で道を作っていく方に楽しさに見出していきます。将来独立して稼ぎたいとか考え始めたのも、大工さんとの出会いがあってからでした。

材木店(23歳〜24歳)

23歳の夏頃、都会で小売りをしている材木店で働き始めました。

材木屋の仕事とは?

仕事は主に木材の販売・配達で、腕っ節の太い上司と一緒にトラックへ乗って、都会の街を走り回ります。材木屋といっても、キッチン、ユニットバス、扉など、住宅に関わるものならなんでも取り扱っていて、家一軒建てるのに必要な木材や建材は、うちでほとんど揃います。

他にも木材加工の仕事があります。
大きな機械を使って、窓枠や、ドア枠、和室の部材などを製作します。
機械を使うので体力をそこまで消耗しませんが、1歩間違えると木材まるまる1本ダメになることもあるので神経を使う作業でもありました。

失敗して成長しながら楽しく働く日々

最初のうちは失敗して経験を積みました。
中でも大きかったのは、ハイツで2階に木材を運搬する際に通路の柵を壊してしまいました。通常修理に3万円ほどで済むのに、10万円もの過剰請求をされて被ってくれた材木屋には迷惑をかけました。感謝しかないです。
ガタイが良くなかった私は筋トレに励み、半年も経てばある程度の木材は安全に運べるようになりました。

体を動かす仕事は気持ちよくて楽しいです。
この頃は毎日軽トラやトラックに乗って配達をしていたので、車の運転に自信が付きました。今となっては、たまにレンタカーを借りるのでこの時慣れておいて本当に良かったと思っています。

大工になりたい気持ちと、将来への不安。

勤めて9ヶ月ほど経ち、業務に慣れて刺激のない毎日を過ごしていました。

仕事は忙しい時もあれば、やることがなく暇を弄ぶこともあり、どこか先行きが不安になります。
この頃、大工になる志を見失っていました。なぜかというと、現場のおっちゃん達に自分が大工になりたい意志を伝えると、皆んな口を揃えて「辞めておけ」と言うのです。なんでも「稼ぎは悪いし、仕事もキツい。昔と違って最近の仕事は誰でも出来るようなことばかり。」
この話を真に受けたくなかったですが、加えて自分の不器用さ、年齢を考えると(大工目指してる人は高卒から働き始める)自信を持てませんでした。

思い返してみれば、「大工になりたい」という思いでいたのに、紹介されたから、他を自分で探せる自信がなかったから、提示された材木屋を選んだ時点で大工を諦めていたのかもしれないです。
材木の勉強といっても、扱うものは汎用性の高い木材ばかり。大工になりたいなら、大工の元で働く方が早いのです。
なりたい未来は自分で作っていく必要がありました。

なんとも自分の志を簡単に捨てるやつです。
その後も材木屋で淡々と働きながら、収入面や、専門知識を付けられない仕事の繰り返しに先々の不安が積もっていきます。

今の状況をなんとか変えたいと行動に出る

20代の時間を自分の将来のために有意義に使いたい。
この広い世界をもっと知りたい。

そして、自分のやりたいことを見つけたり、刺激を求めてクリエイター支援のグループに入会します。これまたボランティアをきっかけに知り合った方の紹介で、私と同じように将来をどうにかしようと奮闘している方が集まっていました。

私はそこで経営戦略、マーケティング、PR、ファイナンス、Web戦略など色んな事を学びながら「フリーランスになりたい」という気持ちが芽生えます。
また、すぐにやりたいことが見つからないから、見つかった時のために役立つ事を始める事になりました。

それがWEBデザイナーになる事でした。
独立した際には、情報発信の力が必要になります。その際に、自分のサイトを構築したり、WEBマーケティングの知識があると助かると感じ、何よりWEBサイトを作るのが楽しかったんです。

WEBデザイナー(25歳〜27歳)

材木屋の頃から3ヶ月間勉強して、参考書を終わらせて自分のサイトを構築します。
基本的には独学で取り組みましたが、わからないことは知り合いに質問して助けてもらいながら知識を身につけました。

いざ、自分のサイトをポートフォリオにして面接へ臨みました。

驚くことに2社受けて、両方から内定の知らせを頂きました。(アルバイト)
嬉しさで跳ね飛び、片方にごめんなさいしてネットショッピングと実店舗を持つ会社に入社します。

当時は「成果を上げて社員になり、経験を積んで1年で独立してやる。」と息込んでいましたが、現実はそう簡単にいきませんでした。

WEBサイト制作の仕事は、ツールの操作や、コーディングは経験と共にスピードアップしていきましたが、デザインに関しては中々身につきませんでした。

そうして制作チームでWEBサイト制作、LP制作、ECサイトの修正、バナー作成、フライヤーやリーフレット等の印刷物制作などを経験して来ました。
嬉しいことに、勤めて1年半で正社員として迎えてもらえることになり、未経験から正社員としてWEBデザイナーに転職することが出来ました。

独立するために退職

2年半勤めて退職することになりました。
この会社には、ビジョンに共感し、WEBデザイナーとして働けるから入社しました。しかし、会社の方向性が変わり始めて仕事に情熱を持てなくなりました。
また、結婚を見据える中で収入面を考えても続けられないと判断しました。

そこで自分のやりたいように生きる事を決意し、独立しました。

現在

現在、フリーでWEBサイト制作や印刷物の制作を承っています。

その傍ら、自分が経験して来た知識や、人に役立つことはこちらのブログで綴っています。

お仕事の依頼などはツイッターのDMからお願いします。

過去の制作実績はこちらTOMA designworksから確認できます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
これからもよろしくお願いします。

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